2.古町誕生と『明暦のまちづくり』

-明暦の新潟町復元想像俯瞰図
<明暦の新潟町復元想像俯瞰図>

明暦元年(1655)の新潟町の復元
6-01明暦地子帳に、堀・通・小路は、方原川(東堀)、寺町川(西堀)、白山堀(一番堀)、新津屋小路堀(二番堀)、広小路堀(四番堀)、御祭堀(五番堀)が記載されています。新堀(三番堀)は明暦移転の時には、まだ掘削されていませんでした。寛文12年(1672)頃に描かれた「四度目沼垂町割王瀬山崩西川会河新潟川端堀口両湊絵図」には記載されておらず、延宝8年(1680)に描かれた「新潟町沼垂町論所立会絵図」に記載されているので、延宝年間(1673~1681年)に道心小路と記載されているところを掘削したものと思われます。
明暦元年(1655)には、現在の古町通や本町通が誕生し町屋が建てられました。明暦地子帳には1,000軒を超える商人・職人などが、屋号・職業などともに、間口幅と地子高(宅地税)も記載しています。
代官所建物は、天保10年(1839)の町奉行宅・隋役詰所・納屋役所・作事所図より復元CGとし、町会所は寛永元年(1848)の町会所図より復元CGとしました。明暦地子帳では柾谷四朗右衛門の敷地であり、町会所であったがかは不明であります。

柾谷小路の由来
現在の第四銀行は、明暦年間(1655~1658年)には小島四朗右衛門の宅地で、小島四朗右衛門家の屋号は柾谷でありました。明暦地子帳には本町四ノ町西側の間口9間3尺の屋敷の内、5間3尺について「地子諸役御免」と記されています。
延宝の湊訴訟(1681年)の時には、江戸上りした町役人に、横目として小島四朗右衛門の名があり、元禄の訴訟(1699年)の時にも、江戸上りした役人の中に町老として名があります。また、宝永4年(1707)から享保10年(1725)にも町老をつとめています。
明暦地子帳には柾谷小路の記載はなく、三間小路となっているため、後に柾谷小路と呼ばれるようになったと思われます。また、柾谷四朗右衛門の子孫の兒嶋達弘氏によると、江戸期は会津藩の蔵宿を務めていたそうであります。
<「新潟市史」抜粋>

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<新潟町代官所復元想像図>

代官所(後の奉行所)と町会所
古新潟町時代の代官役所は、古町通二ノ町の上手に置かれていました。明暦の移転に際しては、古新潟の町割りをあまり崩さずに移すことを原則としていましたが、実際には代官所も含め、多少の変化はありました。代官所は現在の新潟三越とNEXT21にまたがり建てられ、両脇には同心屋敷がありました。新潟町に常駐した武士は、代官2名と同心を加えても10名ほどと極めて少なく、町の運営には有力商人が町役人として関わっていました。
新潟町代官は、延宝4年(1676)に新潟町奉行と職名を変更しました。初代の町奉行は竹垣数右衛門になります。
当時の代官役所と町会所の執務内容は不明であります。町会所は町役人が執務を行う場所で、明暦移転の際にあったかは不明であり、町役人宅で執務が行われていた可能性もあります。町会所の初見は貞亨5年(1688)で場所は不明でありますが、享保6年(1732)には本町通四ノ町西側の柾谷四朗右衛門の宅地跡(現在の第四銀行付近)にありました。
明治5年(1872)、町役人と町会所は廃止されました。

1.新潟町誕生と「元和のまちづくり」 2.古町誕生と「明暦のまちづくり」 3.明暦以降の新潟町 4.日本海有数の賑わい交流拠点への発展
5.みなとのカタチ   6.江戸後期の新潟町  7.開港5港  8.明治・大正・昭和