3.明暦以降の新潟町

 

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<日本海と
信濃川に囲まれた新潟町>

宿の町 新潟
明暦以前、新潟町を領地に持つ長岡藩は、初め新潟町に3棟の蔵を置いて蔵所にしていましたが、後に関屋村に移しました。中越・下越の幕府代官所や村上藩、村松藩、旗本陣屋は、新潟町の廻船問屋(廻船宿)に年貢米を預け、新潟で売却してもらったり、敦賀まで運んでもらったりしました。こうした仕事をする問屋を蔵宿といいました。新潟町には、商人が自分の屋敷内に持つ蔵のほかに、商人たちが町の一画に建てた倉庫郡があり、これを町蔵といいました。
明暦移転後、町蔵は白山神社境内地とその対岸である現在の新潟地方裁判所付近に移り、代官所や藩の年貢米などはここにも入れられました。米蔵がどこに存在したかは特定できませんが、その後の町蔵の場所から推測すると、現在の新潟地方裁判所の場所かと思われ、それを元に復元CGとしました。明暦移転から約50年後の元禄10年(1697)の新潟町の町蔵には、長さ18間(約32m)、幅4間半(約8m)の蔵が51棟もあり、これよりも小さな前蔵が20棟ありました。
越後諸藩が新潟から回米したり売却したりする米は、川船でこれらの蔵に納められました。
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<「新潟町の町蔵」寛政7年(1795)/新潟湊の繁栄 転載>
<「新潟湊の繁栄-湊とともに生きた町・人-」抜粋>

 

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<商店街想像図>

今に続く古町と本町商店街
明暦地子帳には「神明町」「古弐ノ町から古六ノ町」「本壱ノ町から本六ノ町」「須崎町」などの記載があり、そこには名前だけのもの、職業や屋号の付いたもの、名字と思われるものがついたものなど、さまざま記載されています。現在の古町通1番町から13番町、本町通1番町から13番町に一致する町割りであり、町屋として古町通と本町通が区画されたと思われます。それ以降、現在まで区画と通りは原型を保って引き継がれています。
天保2年(1831)に描かれた北国一覧写には、「町屋両側軒下往来する」と書かれており、明暦の町建て時に軒があったかは不明でありますが、これを元に「古三、古四之町」と「本三、四、五六之町」の復元CGとしました。
庇の外側に障子戸があり、その中を往来している光景は、新潟町独特であると思われます。


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<新潟町会所復元想像図>

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<「北国一覧写」(町屋両側軒下往来する)>

日和山と洲崎番所
信濃川の河口に近い日和山(東堀通13番町、現在の住吉神社周辺)は、新潟町で最も高い砂丘の一つで、海を行き交う船が一望できました。日和山の上には方角石もあり、新潟湊へ入る船もいちはやく見つけることができました。
廻船は湊に入ると、湊口にある洲崎番所へ船往来手形を届けなければなりませんでした。洲崎番所は藩の建物で、沖ン口番所ともいいました。この番所は、もともとキリスト教の上陸を防ぐために、寛永20年(1643)に幕府の命令で設置されたもので、沼垂にもありました。
明暦時代以降、新潟町は信濃川の運ぶ土砂と北西の季節風の影響で、河口が沖へ伸びると共に東へ移動し、現在の「カタチ」となりました。河口が沖や東へ移動するに伴い、洲崎番所は湊口近くに何回か移転しました。復元CGでは、河口と日和山に近い海側に配置しました。
天保2年(1831)に描かれた北国一覧写の「日和山」図では、ヒシャ門堂(昆沙門堂)と複数の茶屋が描かれており、日和山近辺には多くの人が行き交い、にぎわっていたところがうかがえます。
<「新潟湊の繁栄-湊とともに生きた町・人-」抜粋>

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<「北国一覧写」(日和山)/巻菱湖記念館時代館蔵>

1.新潟町誕生と「元和のまちづくり」 2.古町誕生と「明暦のまちづくり」 3.明暦以降の新潟町 4.日本海有数の賑わい交流拠点への発展
5.みなとのカタチ   6.江戸後期の新潟町  7.開港5港  8.明治・大正・昭和