4.日本海有数の賑わい交流拠点への発展

信濃川・阿賀野川水系の発展

新田村の成立
現在の新潟市域の村は、江戸時代にできたものが多くあり、江戸時代以前に人々が住んだ場所には、海岸砂丘と河川の自然堤防が多くありました。
亀田郷では古い村は阿賀野川と小阿賀野川沿いに多く、江戸時代にできた新しい村は、内陸部の砂丘上と信濃川の自然堤防に多くあり、寛政年間(1624~1644年)の末には、現在に近い状態に村ができていました。
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<近世初期の越後平野 正保2年(1645)/図説新潟市史 転載>

在郷町と舟運
新田開発の進展と人口増加により、市域では近世中期までに葛塚(北区)、亀田(江南区)、新津・小須戸(秋葉区)、白根(南区)、大野(西区)、曽根・巻(西蒲区)などの在郷町が生まれました。
在郷町には六斎市(定期市)が開かれました。在郷町は舟運の要所に位置しており、舟運が交通の動脈でありました。
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<近世中期までにできた在郷町の位置>

船道の成立
新潟湊と沼垂湊は、川を船で行き来して貨物や人を運ぶ「舟運」によって支えられていました。舟運業者には株仲間組織になっているものと、そうでないものとがあり、その営業範囲は決まっていました。株仲間になっている舟運業者は、船道と呼ばれました。
船道には長岡藩が公認した長岡船道・蒲原船道、会津藩が公認した津川船道、新発田藩が組織した沼垂船統などがありました。

<長岡船道>
慶長16年(1611)に松平忠輝は、長岡河岸を回米の船着場に指定して、元和2年(1616)堀直寄は長岡河岸に問屋10軒を集め、船108艘をもって船継ぎをするように定めました。これが長岡船道であり、長岡~新潟間の貨物の運送を行いました。
長岡船道は、幕領や諸藩の年貢米を長岡河岸から信濃川を通って新潟まで輸送することを義務付けられ、同時に商人貨物の輸送を行うことが認められていました。長岡船道は、信濃川を通行する船は必ず長岡河岸で貨物を積み替えるという、船継河岸の特権を得ました。

<蒲原船道>
西川を通って長岡領の西川沿いの村々の年貢米などを新潟町に運送したのは、蒲原船道でありました。蒲原船道は新潟町の舟運業者で、西川船道、新潟船道ともいわれました。蒲原船道の使う船は、ひらた船と呼ばれる大きな川船で、1隻で米を100~200俵積むことができました。年貢米の輸送には、舟1隻に船頭と水主2人の計3人が乗り込みました。
蒲原船道の始まりは寛永年間(1642~1644年)で、それまでは農民が里小舟に少しの俵を積んで新潟町へ運んでいましたが、危険なため船運業者が輸送することになったといわれています。この頃、新潟町には長岡藩の蔵が3棟あり、蒲原船道はここへ年貢米を輸送して納めていました。その他にも、蔵の番や長岡へ運ぶ藩用貨物の管理などもしていました。

<津川船道>
阿賀野川の上流部にあたる會津領小川庄(東蒲原郡)からも、木材や薪炭類が筏や船で運ばれました。新潟の名産のひとつである下駄の材料は、その多くが小川庄産でありました。小川庄と新潟を結ぶ舟運業者は、津川船道と呼ばれました。会津へ向かう塩は、津川船道が津川河岸まで運び、そこから馬で会津に送られました。

<沼垂船統>
沼垂船統と他の船道との大きな違いは、沼垂船統の運営には藩が直接関与していたことであります。
新発田藩は、領内のうち城下付近の3組(新発田組・五十公野組・川北組)の年貢米を新発田御蔵に、3組以外の組々年貢米を沼垂蔵所に納めさせました。沼垂船統は、沼垂蔵所へ年貢米の川下げをしたり、沼垂へ陸揚げされた藩用の物資を新発田へ運んだりする仕事をしました。沼垂船統が組織されたのが元禄4年(1691)と考えられています。それ以前は、三条船、けら島船などと呼ばれた川船を持った人たちの集団が運んでいました。

<図説 新潟市史-市制100周年記念-/新潟市のあゆみ 港と田園に育まれた都市/新潟の舟運-川がつなぐ越後平野の町・村-/新潟湊の繁栄 抜粋>

日本海側屈指の湊町へ発展

新潟湊が大きな発展を遂げた内的な理由は、後背地の新田開発、在郷町の成立、人口増加などであり、江戸時代の社会的背景としては、貨幣経済化や商工業の発展による全国的な物流の発達があげられます。新潟湊は賑わい交流の拠点として拡大発展していきました。

西回り海運と新潟湊
明暦年間(1655~1658年)頃、日本海側から下関を経て大阪へ至る西回りの航路が整備され、新潟を訪れる廻船が増加し、町は一段と発展するようになりました。稚狭考に「明暦年中に大坂の人が諸国を回って修行しているときに、越後の新潟・新発田辺りの米価が安いのに驚き、大坂に帰ってから越後へ船を出して米を買い付け、大坂に運ぶことが始まった」とあります。明暦元年(1655)には庄内藩の米が西回りで運送され、翌年には高田米が大坂の船に積まれています。新潟町の明暦移転は、西回り海運の成立の好機をとらえたことになりました。
西回り海運は、寛文年間(1661~1673年)になると、大坂の発展と共に発達しました。村上藩は寛文8年(1668)に江戸藩邸へ、蔵米売却代金として大坂分10,800両、大津分6,352両、敦賀分330両の計17,482両を届けています。大坂での売却代金が全体の62%を占め、寛文8年以前に米の売却は敦賀の回米から西回り回米に中心が移っています。
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元禄・宝永のころの湊
元禄10年(1697)に新潟湊で取り扱った商品の取扱高は、総額で460,000両余でありました。その多くは米で、年貢米が344,000俵ほど、金額にして108、000両余になり、商人が農村から買い集めた米などが365,000俵余、金額にして104,000両余に上がりました。商人米の数量が年貢米の数量を上回っています。蔵米を藩別にみると、最大は村上藩米の130,000俵で、幕領米や長岡藩米、会津藩米がこれに続きます。
農村から新潟へ集まるものとしては米に次いで大豆が多く、この他に大麦、小麦、アワ、ヒエ、小豆、ソバなど商人の手で集められた雑穀類があり、これらを合わせると650,000俵余、金額にして170,000両余になり、年貢米の金額を上回っています。これらの多くは上方や松前方面に移出されたと思われます。
西国方面からの移入品と思われるものには、木綿、古手類(古着等)、小間物類、茶、藍、塩、クジラ、カツオ、近江表、綿、紙、鉄類がありました。松前方面からは、ニシン、昆布、鮭、四十物類など、奥羽方面からは紅花、磐城カツオ、材木類があります。その他にも各地から多くの産物が集まり、その金額は178,000両余に上がっています。これらの品々は、新潟町で消費されるものもあったと思われますが、その多くは信濃川・阿賀野川を経て越後国内及び会津、信濃、出羽方面へ送られました。
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<新潟湊の移出入>
<新潟湊の繁栄-湊ともに生きた町・人-/図説新潟-市制100周年記念- 抜粋>

1.新潟町誕生と「元和のまちづくり」 2.古町誕生と「明暦のまちづくり」 3.明暦以降の新潟町 4.日本海有数の賑わい交流拠点への発展
5.みなとのカタチ   6.江戸後期の新潟町  7.開港5港  8.明治・大正・昭和