5.みなとのカタチ

14-00
<「四度目沼垂町割王瀬山崩西川会河新潟川端堀口両湊絵図(1672年頃) 沼垂定住三百年記念誌「ぬったり」付録 転載/新潟市歴史博物館」>

信濃川と阿賀野川の流路変化
江戸時代の新潟と沼垂は、信濃川・阿賀野川の流路変化によって町を移転して新しい湊をつくったり、新しい島の登場によってそれぞれの土地が増えたりしました。それは、湊に関わる様々な権利をめぐる新潟と沼垂の争いの原因にもなりました。また、阿賀野川の河口が現在の位置になるという劇的な景観の変化は、その後の新潟の湊の行く末に多大な影響を与えました。
江戸時代初期の阿賀野川は、津島屋辺りで大きく西へ折れ、およそ現在の通船川の河道を流れ、古湊町・神明町の所で海へ注いでいました。沼垂町はその河口部右岸の王瀬といわれる地にありました。阿賀野川河口と信濃川河口の間には、かつて栄えた蒲原の地が半島のように突き出ており、両河川の河口はわずかの陸地を隔ててではありますが別々でありました。阿賀野川と信濃川はこの半島状の所にあった加茂屋堀という水路で結ばれていました。
信濃川の河口部はたいへん広く、川の中に寄居・白山島と蒲原萱野島があり、川は三筋に分かれていました。このうち、当時の新潟町と寄居・白山島との間の川筋は、現在の東中通にあたり、寄居・白山島の東岸は、現在の上大川前通にあたります。
寛永8年(1631)、阿賀野川の洪水によって加茂屋堀が決壊して川幅が広がり、諏訪ノ尾川と呼ばれる川になりました。その後、諏訪ノ尾川の川幅はさらに広がり、阿賀野川の本流になっていきました。阿賀野川が信濃川に合流したことは、沼垂湊・新潟湊に大きな影響を与えました。
<絵図が語るみなと新潟/新潟湊の繁栄-湊とともに生きた町・人-抜粋>

15-00
<「新潟町沼垂町論所立会絵図」延宝8年(1680) 新潟市歴史博物館蔵>

沼垂町の移転
寛永8年(1631)、洪水によって阿賀野川が信濃川に注ぎ込むようになってから、沼垂町は短期間に次々と移転を繰り返しました。
寛永10年(1633)、王瀬にあった沼垂町は王瀬北部へ移転を計画し、寛永17年(1640)に完了しました。しかし、阿賀野川の旧河道がみなとの機能を失ったため、承応3年(1654)に王瀬北部から大島へ移転しました。大島も南へ流れる川の幅が拡大して浸食されたため、寛文5年(1665)に大島から蒲原へ移転しました。しかし、信濃川の蛇行が激しくなり、町の西部が川欠けで水没しました。
このため、沼垂町は再び王瀬への移転を計画しましたが、新潟町に敗訴し、必要な堀をあらたに設けることを禁じられたため、この計画は実現できず、既存の川を利用した町づくりを余儀なくされました。そこで貞亨元年(1684)に蒲原から長嶺新田に移転し、栗ノ木川河畔に町をつくりました。
これが現在の沼垂になります。
<絵図が語るみなと新潟 抜粋>

15-01
<沼垂町の移転 先行文献転載>

湊訴訟
江戸時代前期を通じて、度々新潟町と沼垂町が争い、その結果、信濃川河口の湊が新潟町に帰属することが確定した訴訟を総称して“湊訴訟”とよんでいます。
延宝9年(1681)の沼垂町の新堀をめぐる訴訟や、元禄12年(1699)の中州の帰属をめぐる訴訟なども含まれています。

延宝9年(1681)の訴訟
信濃川と阿賀野川の河口が同じ時代は、信濃川の蛇行が強く、沼垂町は浸食と移転を繰り返していました。
蒲原から王瀬に移転することにした沼垂町は、町を通る堀を阿賀野川から引き入れる工事を開始しました。これに対し新潟町は、この堀が決壊すると阿賀野川の流れが変わり、新潟湊に大きな損害を与えるとして、工事の中止を幕府へ訴えました。

元禄12年(1699)の訴訟
沼垂町が現在の地へ移転した後も、信濃川は沼垂町を浸食しつづけ、川中には大小10余りの島ができました。新潟町と沼垂町はこれらの島の帰属をめぐって争いました。
沼垂町の町民が島に稲を植えたのを発端に、元禄10年(1697)、新潟町は幕府に沼垂町を訴えました。
16-01
信濃川の中州にできた新しい島々 新潟市歴史博物館蔵>

阿賀野川掘割
阿賀野川掘割は、当時越後最大の潟であった紫雲寺潟を干拓するために開削されました。紫雲寺潟に流れ込む加治川の支流境川を締め切り、水量の増える加治川の排水を図るため、加治川が注ぎ込む阿賀野川に、掘割を掘ることにしました。工事は幕府の監督の下で新発田藩が実施しました。
堀割開削には、新潟町が猛烈な反対運動を起こしました。阿賀野川が直接海へ流れ込むようになれば、信濃川河口が浅くなり新潟町の死活問題になるというのがその理由であります。
結局、堰をを設けて阿賀野川が増水した時には「平常の水位より増えた分の水だけ放流する」「掘割が破壊されたらすぐ元のように復旧する」「掘割は湊にしない」という条件で、享保15年(1730)に掘割が掘られました。掘割の全長は約690mで、幅は約54mでありました。しかし、翌年春の雪解け洪水で掘割は破壊され、阿賀野川の本流と変わりました。
16-02
<増水時にだけ排水する設計であった松ヶ崎掘割 新潟市蔵>

延亨4年(1747)の訴訟
いろは島の開発計画に対して、沼垂町は島の一部が沼垂分であると幕府に訴えました。「沼垂新潟増減立会絵図」では、係争地の3つの島に双方の主張が付箋で記されています。9月の裁許でこの島がすべて新潟町のものであることが確認されました。
16-03-00
<いろは島(流作場)と新潟・沼垂 新潟市歴史博物館蔵>

1.新潟町誕生と「元和のまちづくり」 2.古町誕生と「明暦のまちづくり」 3.明暦以降の新潟町 4.日本海有数の賑わい交流拠点への発展
5.みなとのカタチ   6.江戸後期の新潟町  7.開港5港  8.明治・大正・昭和